2007年12月

「UFO対処を頭に入れるべき」石破防衛相

石破茂防衛相が20日午前の記者会見で語った、未確認飛行物体(UFO)に関する発言の詳細は以下の通り。

「UFO(の質問)は出ませんでしたね。再開しようか?」

--UFO論議が注目を浴びているが、ご所見を

「存在しないと断定できる根拠がない。個人的に信じる、信じないの問題はあるのだろうが、そういうような未確認飛行物体、それを操る生命体が存在しないと断定しうる根拠はない。防衛省としてというよりも、私個人の話だが、存在しないと断定し得ない以上、いるかもしれない。少なくともないと断定するだけの根拠を私は持っていない。そういうものはあり得るだろうということだと私は思う」

--その場合、防衛力のあり方への影響は
「ゴジラの映画があるが、ゴジラでもモスラでも何でもいいのだが、あのときに自衛隊が出ますよね。一体、何なんだこの法的根拠はという議論があまりされない。映画でも防衛相が何かを決定するとか、首相が何かを決定するとかのシーンはないわけだ。ただ、ゴジラがやってきたということになればこれは普通は災害派遣なのでしょうね。
 命令による災害派遣か要請による災害派遣かは別にしてですよ、これは災害派遣でしょう。これは天変地異の類ですから。モスラでもだいたい同様であろうかなと思いますが、UFO襲来という話になるとこれは災害派遣なのかねということになるのだろう。領空侵犯なのかというと、あれが外国の航空機かということになる。外国というカテゴリーにはまず入らないでしょうね。

 航空機というからには翼があって揚力によって飛ぶのが航空機ですから、UFOが何によって飛んでいるのか、色んな議論があるのでしょうけど、それをそのまま領空侵犯で読めるかというとなかなか厳しいかもしれない。そうなってくると、これは飛翔体なのかねということになるとするとどうなのか。例えば隕石(いんせき)が降ってきたことと同じに考えられるか。隕石は自然現象だから何の意思もなく降ってくるわけですが、UFOの場合は意思なく降ってくるわけではない。これをどのように法的に評価するのかということもある。そうすると災害派遣が使えるのか、領空侵犯でもなさそうだ。そうすると防衛出動かねということになるが、それをわが国に対する急迫不正な武力攻撃と考えるかというとそうはならないだろう。
 UFOが襲来して、色々な攻撃を仕掛けるということになれば、そういう評価も成り立つのだと思うが、『地球の皆さん、仲良くしよう』と言って降ってきたときに、それはわが国に対する急迫不正な武力攻撃でも何でもない。また、何らかの意思が伝達されたときに何を言っているかよく分からないという場合に一体、どのようにわが方の意思を伝達するのだということもある。当省として、こういう場合にどうするかという方針を固めたわけでも何でもない。これは私個人の話であって、私は頭の体操という言葉はあまり好きではないが、色んな可能性は考えておくべきものだ。
 ある日突然にそういうことが起こって、どうするのかというのもあまり望ましいことではない。省として取り組むことは全然ないが、私自身として、一体どうなるのかということは考えてみたいと思っている。そのときに日本だけ襲来するかというと、世界あちこちに襲来するでしょうな。そのときに国連でそういう議論が行われたかというとあまり承知していない。まだ、存在しないと断定し得うる根拠がない以上は、やはり頭のどこかに置いておくべきなのではないのかなと。当省としてそういう方針を決定したということでは全くありません」


子供とインターネット何歳から始めるのが妥当なの?

最近の若いコって、ネット慣れしている人が多くないですか? その知識の差にちょっと引け目を感じてしまうのですが…。ネットが普及して10年ということは、彼らは小中学生のころから、もう使い始めていたってことですよね!?

はたしてネットって何歳ぐらいから始めたらいいのでしょうか?

「ネットと教育」というテーマに取り組んでいるITジャーナリストの成松哲氏にお話を聞いてみました。

「小学校3年生から『総合学習の時間』でパソコンが導入されるのに合わせ、8歳ぐらいからが理想的だと思います。その際は、親の適切な指導のもと利用させる必要がありますが」

はっ、早い。僕らには、パソコンやケータイはオトナの道具だぞ!っていう偏見もあるんですけど…。日記を、手書きではなくブログで書くことも多いみたいですが。

「日本の子どもはIT技術を使った表現方法が豊かだといわれているんです。ブログも、人に見せられるものを書くという意識から、年齢のわりにしっかりしたものが多い。彼らは吸収力も高ければ、柔軟な発想力もあるんですよ」

けれど一方で、悪質サイトなどにのめり込んだりする恐れもあるのでは?

「ネットでちょっとしたアダルトサイトをのぞくくらいは、自然な第二次性徴の発露なので目をつぶりたいところ。ただ、掲示板的なサイトは検索以外の使用法につながるので、少し怖い面もあります。そういったことを防ぐために、キーワードで悪質サイトを自動検知し、アクセスを遮断する『ウェブフィルタリングソフト』などがあります。合わせて家庭のルールも設けるとよいでしょう」

今回取材をしてみて、子どものネット環境はぐんぐんと進んでいることを実感。そんな中、我々R25世代は生き延びていけるのでしょうか?

「ITの技術は日々進歩するものなので、新しい人たちに技術力ではかなわないかもしれません。ただ、10年、20年先、我々にはコネクションやその業界に身を置いてきたことによる経験値があり、それは技術とは変えがたいもの。あまり不安になる必要はないと思います」

我々はマネジメント側に回ればいいとのこと。これを聞いて、ちょっと安心しました。ただ、これからは真の実力社会。そう遠くない将来、デキる年の離れた後輩には、敬語でお願いするなんてこともありそうです…。

レオシュ・ヤナーチェク

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レオシュ・ヤナーチェク(Leoš Janáček, サウンド! ?, 1854年7月3日 - 1928年8月12日)は、モラヴィア(現在のチェコ東部)出身の作曲家。

モラヴィア地方の民俗音楽研究から生み出された、チェコ語のリズムや旋律を活かした独自の音楽語法を用い、朗唱風のオペラをはじめ、管弦楽曲、室内楽曲、ピアノ曲、合唱曲に多くの傑作を残した。

20世紀前半では、祖国を除き、まだごく限られたレパートリーのみが知られるマイナーな存在であったが、ピアニストのルドルフ・フィルクスニーや指揮者のチャールズ・マッケラスらの優れた演奏および録音をきっかけに広く知られるようになった。


レオシュ・ヤナーチェクのレリーフ目次 [非表示]
1 生涯
1.1 少年期
1.2 青年期
1.3 壮年期
1.4 晩年
2 ヤナーチェクの音楽史に占める位置
2.1 民俗音楽のインパクト
2.1.1 モラヴィア音楽の特徴とヤナーチェク
2.2 ヤナーチェクの受容史
3 ヤナーチェクのテーマ
4 主な作品
4.1 管弦楽曲
4.2 協奏曲
4.3 室内楽曲
4.4 ピアノ曲
4.5 オペラ
4.6 声楽曲
5 脚注
6 関連項目
7 参考文献
8 外部リンク




[編集] 生涯

[編集] 少年期

故郷フクヴァルディに建つ代表作『利口な女狐の物語』をモチーフとしたモニュメント1854年7月3日、モラヴィア北部の寒村フクヴァルディ[1] において、学校教師の父イルジーと母アマリアの10番目の子供として誕生した。11歳のときモラヴィアの首都ブルノに連れて行かれ、アウグスティノ会修道院[2]の少年聖歌隊員となった。聖歌隊で彼に音楽教育を施した指揮者、パヴェル・クルジージュコフスキー[3]はチェコ国民楽派の始祖とされるスメタナと同世代にあたり、ブルノ・ベセダというアマチュア音楽家グループの中心人物としてモラヴィアの民俗音楽の豊かさを認識させる運動を行っていた音楽家で、その後のヤナーチェクの音楽に対して影響を及ぼした。

ヤナーチェクは1872年、アウグスティノ会修道院の聖歌隊副指揮者に、1873年にはスヴァトプルク合唱協会の指揮者に就任した。無伴奏男声合唱のための作品がヤナーチェクの初期作品にいくつか見られるが、それらはこのスヴァトプルク合唱協会のために書かれたものと考えられる。


[編集] 青年期
1874年、ヤナーチェクはオルガン学校で学ぶためにプラハに移り、主に教会音楽を中心とした1年間の課程を「極めて優れている」成績で修了した。プラハ時代にはドヴォルザークとの出会いがあり、ヤナーチェクはその音楽を深く愛するようになっている。

プラハからブルノに戻ったヤナーチェクは、修道院での聖歌隊の指揮やスヴァトプルク合唱協会の指揮に復帰した。さらにブルノ・ベセダの聖歌隊指揮者にも就任したが、多忙となったためスヴァトプルク合唱協会の指揮者を辞任した。

こうして実践的な場で音楽経験を積むにつれ、基本的な音楽技法の不足を感じたヤナーチェクは再び勉強し直すことを決意した。交際していた女性、ズデンカ・シュルゾヴァーの実家の勧めもあり、1879年10月にヤナーチェクはライプツィヒの音楽院に入学した。しかし彼はそこでの教育に満足できず、翌年の2月末にウィーンに向かった。このとき、ヤナーチェク本人はフランスでサン=サーンスに学ぶことを考えたのだが、恋人ズデンカの反対によりウィーンへ行くことにしたのである。

この当時、ウィーン音楽院ではヨゼフ・ヘルメスベルガー、ロベルト・フックス、アントン・ブルックナーなどが教師として名を連ねていたが、ヤナーチェクが作曲の指導を受けたのはマーラーの師であったフランツ・クレンであった。しかし彼はウィーンの音楽教育にも飽き足らず、その年のうちにブルノに帰った。クレンといえば、マーラーの伝記では厳格な教師として知られているのだが、ヤナーチェクは彼を理論的ではないと感じ、不満を募らせたのだという。

もっとも、彼が本当に不満を感じたのは音楽教育に対してではなく、辺境出身者として大都会で感じた疎外感ではなかったかとの見方もなされている。ブルノに帰ってから後のヤナーチェクは民族主義運動に共感し、ドイツ語での会話を拒否するようになっている。

結局、この頃の正規の音楽教育への失望が、このあと自国の言語と民俗音楽からその独特の音楽語法を身につける道の選択へとつながるのである。


[編集] 壮年期

ヤナーチェクとズデンカ・シュルゾヴァー(1881年)ブルノに帰った翌1881年にヤナーチェクは、ズデンカ・シュルゾヴァーと結婚し、岳父エミリアン・シュルツの助けで1882年にオルガン学校を開校した。この学校は、1919年に国立音楽院となった、現在のヤナーチェク音楽院である。また、同じ年にブルノ・ベセダに歌とヴァイオリンの学校も開設している。さらにヤナーチェクはブルノに設立されたチェコ人劇場のための音楽雑誌「フデブニー・リスティ」の創刊者となり、1884年11月にその第1号を発刊した。この頃のヤナーチェクは2つの音楽学校の教師、2つの合唱団の指揮者、音楽雑誌の編集者と多忙を極め、作曲をほとんど行っていない。

1886年、ヤナーチェクは民俗音楽を研究していた民俗学者フランティシェク・バルトシュと親交を深め、協力して民俗音楽と民俗舞踊の収集・分析作業を行うことにした。ヤナーチェクはこの作業に没頭したが、これがモラヴィアの音楽をその血肉とする最後の仕上げとなった。ヤナーチェクは1889年の「ラシュスコ舞曲」において、初めて民俗音楽をはっきりと意識した作品を発表した。民俗音楽の直截な引用は1891年のオペラ「物語の始まり」で頂点に達し、その後はほとんど見られなくなる。こうして独自の音楽語法を手にしたヤナーチェクが1894年から1903年の9年間をかけて完成させたのが、彼の代表作の一つであるオペラ「イェヌーファ」であった。

一方で、彼の民族主義運動への共感は深まっていた。1905年10月1日、ブルノでチェコ人のための大学創立を要求するデモと軍隊が衝突し一人の労働者が死亡する事件が起こるが、この事件に怒ったヤナーチェクはピアノソナタ「1905年10月1日 街頭にて」を作曲した。また1915-1918年には、コサック首領の物語に祖国独立の想いを仮託した管弦楽曲の代表作、交響的狂詩曲「タラス・ブーリバ」を作曲し、チェコスロヴァキア共和国軍に捧げている。

私生活では、ズデンカ・シュルゾヴァーとの結婚生活は当初から不安定な状態が続き、妻の実家であるシュルツ家との関係も悪化した。ヤナーチェクは結婚の前後から、民族主義的な傾向を強めドイツ語の使用を避けるようになっており、それが当時の上流階級の常としてドイツ語でドイツの習慣に従って生活していたシュルツ家の人々との距離を離れさせる一因であった。1890年に長男が亡くなった後は、ヤナーチェクの死まで結婚関係こそ解消されなかったものの、結婚生活は事実上崩壊していた。

1903年には、ヤナーチェクは娘オルガも亡くした。この頃にはピアノ曲集「草陰の小径」や「霧の中で」といった内省的な作品が書かれている。


[編集] 晩年
1917年、63歳になったヤナーチェクは、運命の女性カミラ・シュテスロヴァーと出会った。この出会いが彼の創作意欲に刺激を与えたのか、1917年から1919年に歌曲集「消えた男の日記」、1919年から1921年にオペラ「カーチャ・カバノヴァー」、次いで1921年から1923年にかけてオペラ「利口な女狐の物語」、1923年には弦楽四重奏曲第1番「クロイツェル・ソナタ」、1924年に木管六重奏のための「青春」、1926年に「シンフォニエッタ」、「グラゴル・ミサ」、1927年から1928年に最後のオペラ「死者の家から」、1928年に弦楽四重奏曲第2番「ないしょの手紙」と、それぞれの分野での代表作となる傑作を立て続けに書き上げていった。

1928年7月30日、ヤナーチェクは、カミラとその夫デイヴィッド、そして11歳になるカミラの息子の三人を招待して、故郷フクヴァルディに出かけた。カミラの夫デイヴィッドは商用のため数日で帰宅したため、ヤナーチェクはカミラとその息子の三人で休暇を過ごしていたが、この滞在中ヤナーチェクは死に至る肺炎に罹ってしまった。原因はカミラの息子が帰らないのを心配して雨の中を森に探しに出かけせいとも、ハイキングで雨に降られたせいとも言われる。

8月12日、ヤナーチェクは肺炎によりオストラヴァで息を引き取った。彼自身の指示で、妻ズデンカへの連絡は亡くなるまで行われなかった。棺はブルノの聖アウグスティヌ修道院の聖堂に安置され、葬儀は8月15日にブルノ劇場で行われた。

葬儀では作曲家の生前の希望通りオペラ「利口な女狐の物語」から森番のエピローグが演奏された。オペラの中でヤナーチェク自身が台本を書き起こした部分で演奏される曲は、流れてゆく時間の中で循環し繰り返される生命・大いなる自然の営みへの感動と敬意を歌う楽曲であり、自身の死を前にしたヤナーチェクの死生観を示している。

<防衛汚職>守屋容疑者ゴルフ 沖縄・米軍ヘリ墜落翌日も 

前防衛事務次官、守屋武昌(63)と妻幸子(56)の両容疑者が04年8月、沖縄県の大学構内に米軍ヘリが墜落した翌日から、防衛専門商社「山田洋行」元専務、宮崎元伸容疑者(69)と九州にゴルフ接待旅行に出かけていたことが分かった。前次官は次期輸送機(CX)のエンジンが同社が代理店を務める米メーカーに決まった翌日にも北海道へゴルフ接待旅行に行ったことが既に判明しており、トップとしての危機管理や規範意識の欠如が改めて浮き彫りになった。

 関係者によると、04年8月13日、沖縄県宜野湾市の米軍普天間飛行場に隣接する沖縄国際大の敷地内に米軍の大型輸送ヘリが墜落、炎上した。外務政務官が翌14日に現地入りしたが、事故機に近づくことを制止されたり、県警の現場検証が拒まれるなど、日米地位協定の改定問題が再燃する事態となった。

 しかし、当時次官だった守屋前次官は同日から夫婦で宮崎元専務とゴルフ旅行に出かけ、14日に長崎県、16日に佐賀県のゴルフ場でプレー。プレー開始前にカウンターで名前を記入する際やゴルフバッグの名札には前次官は「佐浦丈政」、幸子容疑者は「松本明子」、元専務は「湊一郎」という偽名をそれぞれ使っていた。

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